diary

  • 2026年5月13日

    競技的なクイズをするYouTube動画で、問いの美しさを褒める場面がしばしばある。今日見ていたのは大久保八億が出ているなにかしらだった。そこでは例えば問いの中での情報の出し方・出す順番によって回答者とよいコミュニケーションができていることが「美しい」と褒められている。そこで気になったのだが、そこには答えを1つに定めるための統語的ないし意味論的な側面もあると思うのだが、どうなのだろう。日本語文法として破綻させずに答えが1つに定めるにはこういう言い方をしないといけない、そういった言葉の使い方があったりするだろう。そうするとここでの「美しさ」は、そういうコミュニケーションの統語的・意味論的なルールまでも、プラグマティックなものとして理解し、感性的に表現しているケースと見ることはできるか。競技クイズには、そういう「答えを1つに定める」そして早押しであれば「早く押すことが可能になる」ための様々な工夫がきっとあるのだろう。

  • 2026年5月12日

    朝一番にいった内科クリニックはよく混んでいて、そうするとすぐ隣にある処方箋受付の薬局も混んでいる。そしてここの薬剤師は、よく喋る。こんな具合に。

    今どうですか?お腹の調子あんまりよくないね。そうなんだ。うんちょっと緩い感じですかね。そうだとこの●● ● って飲んでるのでこれのせいだと思って。これ栄養剤なんですけど、吸収できないって。ちょっとなのでそこはもうあのついて回るもんなわけ。はい。だからこっちのはあんまり使うと今度ギュっとお腹痛くなっちゃうので、ちょっと様子見ながらね。いいと思います。はいはい。血圧の薬は 2 種類変わらずありますね。はい、で1 日おきと。これが夕食。今ヘモグロビンはどのぐらいですかね?血圧。ほいほいばっちりですね。いい感じいい感じ。もう飲み込みは全く問題ないですか?全くないんだけど、うん。やっぱりこういうのは、あの今血糖を上げすぎても困るから、まあその栄養剤は入ってる間はそれにちょっと頼りながら。咀嚼は問題ないんでしたっけ?このあいだ言ってたので。はいはい。■■ ■ ■ 少しは出すのか。飲み込みが問題ないであれば、あとゆっくりしっかり噛んでま少しお食事というかカロリー入ってもいいのかなと思うんですけどね。そうですね。よいしょ、またちょこちょこチェックしていきましょう!はーい!はいはい。はい、ありがとうございます。少し体力戻しましょう。ありがとうございます。はい。

    1人がこの調子で、4人目に順番が回ってきた。おもしろい仕事だなと思う。

  • 2026年5月11日

    明日の研究会の準備のために文献チェックしつつ、Zoteroを少し整えたNotebookLMで書誌情報をRISで出させて、Zoteroで一括で読み込むのがラクすぎて仕方がない。

    「自分にはどれも同じ植物に見えたのに、現地の人はたくさんの名前を挙げていくことのショック」というフィールドノートと「風邪の時に見る夢」という大喜利の回答にはどちらも、「お利口な奇の衒い」として陳腐さがある。後者はすでにこれへのメタ的なイジりすらも飽和しているが、前者についてはどうなのだろうか。

  • 2026年5月10日

    Obsidianでこの頃しばらくは執筆リソースを管理していたが、あんまり思考がたまっていく感じもなく、Zoteroですべてを管理するかつてのやり方に戻そうかなという気にもなっている。Obsidianは定期的にメモを見返すのであればフィットするが、ファイル作ってとりあえず突っ込んでおく、とは若干モードが違うのかもしれない。またメモと文献が一緒くたにあるのが自分にとって大事なのかもしれない。あるいは文献かフィールドノートに紐づいていないなにかを書くのを避けたいというか。

  • 2026年5月9日

    文献の整理をNotebookLMつかいながらやった。データのファイル名を変えていき、ジャンルごとに整理する。修士の時期に集めてデータ化していた文献を整理した。その時に関心を持っていたものなので、人類学のほかに、哲学、音楽学、共感覚や聾研究、景観論など。近頃は触っていないジャンルのものたちだ。

    「わたしたちが笑いを覚える顔の表情に見ることになるのもなのだ。顔のふだんの表情は、たとえしとやかで美しいものであっても、刻み込まれてしまって直らない皺/癖と同じ印象を与える、と言う人もいるだろう。しかし、ここで重要な区別をしておくべきである。わたしたちが表情の美しさについて話すとき、また表情の醜さについて話すときであっても、わたしたちがある顔に何らかの表情があると言うとき、取り上げられているのはおそらく変化しない表情なのだが、わたしたちはそこに動きをみてとっているのだ。」(ベルクソン『笑い』光文社古典新訳文庫 p.48)

    「「知性とは何か?」と、シカールが公開授業の時、彼に質問した。 「真実のまっすぐな線の上を動く心の力です」と、彼は黒板に書いた。「悪はどこから来るのか」という問いには、「過分なものから、あるいは不十分なものから」と答えた。」(レイン『手話の歴史:ろう者が手話を生み、奪われ、取り戻すまで』(上)築地書館 p.39)

  • 2026年5月8日

    学会発表にむけて、いったんフルペーパー近いものをつくって、そこから発表資料を抜き出そうという試みにチャレンジしようとしている。これてんてんに失敗したらウケるな。とりあえず事例の手前までは行き着いた。学会で初出しするための冊子をつくったりもしている。この頃は日誌っぽくなってしまっていて、それはあまり好きではない。

  • 2026年5月7日

    北大周辺はセイヨウタンポポが凄まじい勢いで育っていて一面黄色になっている。草むらが伸びて、地面にいる鳥は見えない。樹上の鳥も、葉に隠れるようになっている。鳴き声はするから確実にこの1本の樹のどこかにいる鳥を、双眼鏡でどのように探し出せばよいのだろうか。

    自分の議論について、もう少し「自然」の話もするかとふと思った。油断すると「文化」の話になる。

    「違和感がある・違和感を感じる」という表現をよくよく目にするけれども、そうではなくて、「おかしい」と言うこと。論理や倫理の問題としてフレームすること。違和感と間違いを区別し引き剥がすこと。

  • 2026年5月6日

    朝から論文のビブリオの整理をする。全体としては調子が良いだけに、やること・やりたいことにたいして時間がなさすぎてまわっていないのが悔しい。

    草稿がいったんまとまる。16000字が15時間(+タイマーを回し忘れている数時間)くらいでできあがるかかっている。1時間1000字、これで書けていれば伸び伸びできるという感じ。もうちょっと全部が見えていれば掛かる時間少なくなるかな。

    同居人と雑貨屋に行ったが気分のめぼしいものなし。さらに近くの雑貨屋で緑のパスタ皿を買った。これはなかなかときめきがあった。

    「重要なのは、この〔トヨティズム/オオノイズムの〕実践が工場のなかで生産に従事する労働者と工場の外の顧客との想像上の距離を限りなく縮めたことである。たとえば「検査では品質は作れない。品質は工程で作り込め」という品質管理(Quality Control)の「精神」は、労働者が想像の上でつねに顧客と向き合うこと、さらには顧客になりきることを要請する。」(渋谷望『魂の労働:ネオリベラリズムの権力論』p.35)

  • 2026年5月5日

    昨日から、寝かせていた原稿に取り掛かる(ときどき手入れしていたものの、原稿にするのは1年ぶり)。書いていくなかで、自分はそういえばこういうことを書きたいんだったと気がついていく、明確になっていくことの気持ちよさ。かつて考えていたはずのことを取り戻すことの嬉しさ。また1年前には書けなかったであろうことの多さ。
    学会発表のためにスライドつくるのなんかバカらしくなり、発表はWordで短い論文的に書くことにした。別にここで分かりやすさとか追求したとこで価値になりにくいから、自分のなかでのロジック詰めたほうがいい。ほかの人からコメントしやすくすればいい。パラグラフを均しながら、心が落ち着く時間やった。Wordの白さが染み入るという具合。
  • 2026年5月4日

    カレイを買ってみて煮付けにして、茹でこぼしもしてみたが本当に生臭さに耐えられず。札幌の都市部が物流の末端であることを痛感する。本当にこのスーパーの魚は美味しくない。

    原宿引退式は、金払ってみるくだらない物としては一級品だった。ちゃんとくだらないものを享受するにも銭が必要。

  • 2026年5月3日

    論文を投稿し、知的体力を使い果たす。同居人と以前から行きたかった近所の立ち飲みバルに日が沈む前に向かい、扉を開けるときにはすでに体力が回復していた。乾杯の口をグラスにつけたらもうすべて元気になっていた。都合のいい頭と体である。
    論文では字数制限のためにトリヴィアは全然書けない。トリヴィアルな記述・分析をするか、トリヴィアを書くかは、択一かもしれない。
    人類学の書くときのムズさは、ごく一般的な意味で、2つのものを比較することよりもむしろ、3つのものを比較する際のムズさに感覚としては似ていると思う(2つの文章の異同を確認することと、3つの文章の異同を確認することを想像してほしい。眼が3つあれば解決するのだろうか?)。事例と理論の関係についてみんな言うけれども、本当はそれに、自分の関心や主張が加わる、3つのお手玉なのだ。この3項の干渉があるんだなというのが分かった。2項間ならこんなに難しいはずはない。そして3項の(関係の)うちの1つをカッコに入れることによって、2項の問題として処理する方法は確かにある。別の論文ではそうした。そのカッコの入れ方は科学的知識生産一般でいえば、たとえば定式化された分析メソッド、標準化された実験器具とかはそれに相当するだろう。
  • 2026年5月2日

    formやformatに相当する日本語として「様式」があることも忘れずにいたい。「形」という語ばかり思い出してしまうので。とくに、書類の右上に「様式1-2」など書かれているものについて。
    patternが語として父的なものであり、matterが母的なものであるというのは、英語の議論ではどの程度意識されていることなのだろうか。
     

  • 2026年5月1日

    「二〇一七年に私の調査地の高校を卒業した先述のザカリアによると、高校三年生のとき、学校からノートパソコンが三台盗まれた。同級生三名が犯人として見つかり、彼らは二台のパソコンを戻したが、三台目はすでに売り払っていて、手元にはもうないということだった。ところが卒業間近、パソコンを盗んだ学生のうち一人が、ピカピカの車を購入した。こうして周囲は、返さなかった三台目のパソコンを使って彼が詐欺で大金を稼ぐことに成功したのを知った。そしてこの学生は高校前の大通りでその車を走らせて見せびらかし、小さなバイクで帰宅中だった教師に挨拶することなく、猛スピードで追い越した。学生が教師を敬うべき社会規範に「下剋上」を突き付けてみせたのだ。」[友松夕香『グローバル格差を生きる人びと』p.65]

    これはガーナの話だが、なんか日本でもありそうだなと思った。「教師」に対する下剋上かはさておき。

  • 2026年4月30日

    ラトゥールがReassembling the Socialの中で、「説明が必要な記述というのは良い記述ではない」ということを言っているのは知っていたが、ウィトゲンシュタインが金枝篇批判の中で、以下のことを述べているのに出会った(英文からの訳)。

    >私は、説明という企てはすでに間違っていると信じている。なぜなら、我々はただすでに知っていることを正しくまとめ合わせるだけでよく、何も付け加える必要はなく、そして説明を通じて得ようとする満足感は自ずと生じるからである。

  • 2026年4月28日

    レビュー論文のための文献チェックと、リストの作成をした。論文と要約と、レビュー論文のなかでの扱いを一覧にしていく。数十点溜まってくるとかなり見通しは立ってくる。表という形式の執行力に頼って物事を進めている。ただそれでなにか閃きが出てくるかというと、ずいぶん頼りない。
  • 2026年4月27日

    地震で起きる朝だった。

    「AIは間違う」と人が言うとき、「人間の間違い」をどう考えているのだろう。専門家も当然間違う。おそらく訂正可能性や学習可能性がかかわる事柄(AIの間違いを正しても、また同じ間違いを吐き出すので、)で、そうすると、AIが「学習する」指摘のコストの負担の問題だろう。 ここまではすぐにわかる。

  • 2026年4月29日

    北大での探鳥会に参加する。ムクドリ・コムクドリの混群があったりと、天気とともに良い春の1日だった。
    自分の論文の改稿をしている。いろいろなことがわからんすぎる。とにかく問題が、この1文を書いたら他のところにも作用してしまって…が統制できていない点だ。
  • 2026年4月26日

    春とヒコーキの単独に家の2人でいった。芸人の単独に行くというのがはじめての経験だった(配信では見たことがある)が、幕間・転換を全部暗転して映像でつなぐというのは、舞台演芸でどの程度共有されているやり方なのだろう(音楽ライブならそういうことになっていないわけで)。最後のネタがくだらなさの塩梅が好きだった(視覚的にはわかりづらい笑いが一発で会場に伝わって大ウケしていたのはすごかった)し、途中で(「全然ウケてねえ」とぐんぴぃが言ってたものの)タケシのひとくだりをやってくれたのは自分はめっちゃ嬉しかった。春ヒコが「ネタ」について語る動画で、土岡が「自分の頭の中を見せたい」と言っていたおぼえががあるが、そうすると彼としては「客席の常識から照らして、ヘンなやつには、ヘンだねと言う」世界を見せたいということなのだろうか。自分は「ヘンなやつの生活」とか、「客席のもっている常識とは別の常識で動いている世界」も見てみたいなと思った。

  • 2026年4月25日

    今日の発表のために年表+αの図をつくった。Googleスライドに画像として貼るにあたってどうも解像度が落ちすぎる具合になり、こんなことなら最初からInDesignで作成することもそろそろ検討しはじめるかなともよぎった。共有とかしやすさから当面はGoogleスライド一択だとは思うけど。夕ご飯をミスドで汁蕎麦なりチャーハンなりで済ませるのも乙である。
  • 2026年4月24日

    家の飯だからこそカンペキにしたいという欲があるよね。
    はじめて図書・ 情報館行ったがある種の理想はあるだろう。ラップトップを叩くスーツ姿。自習する学生。カウンターに居座る話が長いオヤジもいるし。調べ物をして、想像が実際になった。
    明日の研究会の発表スライド、落ち着くとこに落ち着いた。今までになく、制御を超えたミチミチさがある。
  • 2026年4月23日

    今日腹部エコーをとってくれた看護師は、指示を出すときに「息吸いまーす」「ラクにしまーす」という言い方をする人だった。また一方で、CTの機械音声は「息を吸ってください」「ラクにしてください」だった。造影剤入れられると口の中に塩味を感じたり、わずかながら不思議な体験だし、気分悪くなる人がいるのも理解できる。

    昼飯に中華屋に寄って、一品物の「鶏ネギチャーシュー」を頼んだ。来たものは「鶏チャーシューとネギを和えたもの」で、これに違和感がない(期待したもの通り)というのも不思議だなと思った。つまり、「鶏ネギチャーシュー」という言葉はリテラルには「「鶏とネギ」をチャーシューにしたもの」とか、「鶏とネギとチャーシューの盛り合わせ」だろう。「鶏チャーシュー」の間に「ネギ」が挟み込まれたネーミングが、店にとっても客にとっても成立しているということ。

  • 2026年4月22日

    北大のキャンパス西側にある農場のあたりをはじめて歩いた。
    たくさん  ツグミが地面をつついている。カラスも繁殖シーズンでせわしなく鳴いて飛んでいる。キャンパスには新入生とサークルやらに勧誘しているのか新2年生らしい人で溢れている。人も鳥も、こんなに性のエネルギーが充ち満ちている空間はいつぶりか。「ワンチャン」を狙い狙われる、干支ひとまわり下の男女若人たちのケに圧倒された。「ワンチャン」はすでに死語なのだろうか。

    インターネットでもあちこち訪ねて調べ物してあれこれかき集めて、実世界でもあちこち訪ねて調べ物してあれこれかき集めて、これってめっちゃロックマンエグゼでお使いイベントこなしてる時だなーと思ってる。ハイブリッドエスノグラフィってこういうこと。あとロックマンエグゼはバトルチップアクションゲームではなく、お使いゲーム。

    北大含めて図書館に2カ所よって、3件目が一番重要だったのだが、閉館しており、ミッション失敗。

  • 2026年4月21日

    胆嚢の検査をしに、紹介された近くの中規模病院にいく。入院病床もある病院で、平日昼間になかなかスタッフも患者も賑わっていた。各病院でつくってもらう診察券もなにかに一本化されたりしないのだろうか。

    医者「カンさん今日ご飯食べてきた?」→カン「食べちゃいましたねー」。初診だが、食べてなかったらこのままCTとれたんかな。それはそれでスムーズすぎる。
    モルが書いているように、病院には、患者に選択させ合意させる・カタチのうえで合意したことにするための実践が大なり小なり無数にある。造影剤をつかうのにも同意書にサインが必要になる。そしてその同意の実効性や信用はさまざまに分散していて、例えばそれは病院がもつ原本と患者がもつ写しの同一性、つまり病院に備え付けられたスキャナー+印刷機の複製可能性への信頼に担保されていたりする。同意というものの典型がこういうカタチなので、理想的な同意というものがどういうものなのか、人々はとっくに忘れてしまった。
    受付事務の人たちが自分より確実に年下だろうという感じで、なんだか不思議な気持ちになった。「●●さん、会計口にお願いします」→「念のためにお名前おっしゃっていただいてもいいですか」を会計に立つ人のたびにスタッフは繰り返していたが、自分は尋ねられずじまいだった。
    たしかに病院というのは、スタッフや建物・道具、制度の専門性ゆえに常識的生活からは離れた特殊な活動が観察可能なかたちで遍在しているし、それでいてしかし空間を構成するもう半面である患者のシロウトさゆえに常識的生活の延長でもあるので、社会学者や人類学者の興味をひく場なのだな。
  • 2026年4月20日

    寝る間際になって、新聞アーカイブや官庁資料をあさり始めて止まらなくなった。議事録を追いかけ始めると途端に資料が拡散するし、追いかけづらくなる。それでもネットである程度は追跡できてしまう、ある程度は。デスクトップリサーチの初歩的なティップスがたまる。たぶん根幹である山はつかんだので、これをみていけば良いのだと思う。それはまた明日。
  • 2026年4月19日

    かなり当て所なく散歩して、ふだん一人ではいかないが円山公園の裏のほうまで歩いた。高級住宅街は庭とか裏山的な場所が多く、建物のあいだあいだで、鳥の声がよく聞こえる。

    家で簡易金継ぎをのんびり始めることになった。とりあえず欠けがある器3枚が相手になる。キットに梱包されて収められている、パテやら綿棒やらヘラやらデザインナイフやらの道具をひとつひとつ検分せずに、さらには番手も確認せず器に紙やすりをかけはじめてしまう連れ合いを見て、「あなたって旅行のパッキングが好きな人間なのに、こういうところはそうなのか」と口に出た。

  • 2026年4月18日

    博論の構想を立てて、まだやるべきことがあることを確認した。しかし、同時にもうほとんど残っていないような気もしてくる。小さいものも含めて、意外に章が多いなと思った。博論は週に1回だけ触っていいことにしている。
     
    ▶カフェの会話のパッチワーク
    その雪とかねが多いから、外の人から見ると住みづらいんだって。そう。我慢強いとかっていうのはですから。 終わった頃に来たよね?もうほとんどされる。なんか。でも途中から変わります。はい。あはい、ありがとうございます。これはすごいね。よくできてるわ。食べよう。ちょっと味違う。いいよ。もう1ストローク。うまいね。
    夕飯のあと、小笠原鳥類を読んだ。以前よりも生き物や生き物の図鑑を見るようになった今、よりいっそう楽しめている。確かにそう書くよな。『鳥類学フィールドノート』は、これがフィールドノートかはさておき、日記・日誌という形式で書かれた詩と、そのなかに書かれた文言を使って書かれた詩が並んでいて、これってエスノグラフィの形式でもある。

  • 2026年4月17日

    デスクトップリサーチをする日。
    これはまあ楽しい 。pythonでのスクレイピングツールもつくってしまった、便利だ。官報情報検索サービスは大学の契約があるが総合図書館のみで使えるようなので、手近な公共図書館に行く必要がある。東アジア人類学研究会・若手研究者発表会、プログラム確定のお知らせがくる。これで集中して準備を進められる。夜に別の学会のアブストをざっと書いてみる。英語にすると、普段調査・聞き取りで用いている言語と変わるということで、一気に分析として座りがよくなるな、なんだこれ。
  • 2026年4月16日

    新聞のレシピ欄のおもしろさってある。ここで自分は新聞の読者を知る。
    フィールドノートと資料と自分が見たものの印象・記憶を頭のなかで比べながら、もしこうだったらちょっと話の組み立てがタイヘンになるな(ただなにかしら迂回路を通すスジはありえそう)という懸念事項がここしばらくあった。だが今日実際に分析してみて、杞憂だったことがわかった。
    韓国のビートボクサーのHellcatのハングル表記が헬캣なのを知って、ハングルであれば英語の(そこまで子音が連続しない)1音節ブロックを1文字に対応させて表記できるのか~と思うなどする。CVC構成と、末尾のCがパッチムとして許容される音であることは条件になる。Strengthは스트렝스になるようだし。
    同居人に、「実りある議論のため」とかいうタイトルの論稿は、それ「論争、やりましょうや」というやつだから。野次馬馳せ参じまっせの合図だから。という情報を伝えるついでに、名和先生の論争の発端となった論文をいつぶりかに読んだ。あまりにもキレキレ、キレすぎるナイフなのだが、しかしレビュー論文はこうやれよというお手本でもあり、とにかくいろいろと勇気づけられた。先生の書くものは何を読んでも背筋が伸びるし、また自分の作業の習いにもなる。「この議論はこういう議論をしていて、こういう良さもあるが、しかし問題もあって」とひとつひとつ問題点を指摘していくのは、「ここまではすでに議論されていて、ここから独自性・新規性のある、ないし論理的に妥当な議論で、」というのをマークしていく作業だというのが、彼の論文を読めばよくわかる。そして論理がとにかく大事。
  • 2026年4月15日

    最近我が家では「良質な睡眠」という語が頻出するようになった。ちなみにほとんど、9割8分自分しか言っていない。要するに「スマホを寝室に持ち込まずに寝ること」を指す。「スマホを仕事部屋に置き去りにして、アラームもかけずに寝ちゃうぜ」ということを、「今日は良質な睡眠をする」と言っている。寝付きは良い気がする。
  • 2026年4月14日

    近所のクリニックに朝イチで行って腹部エコーを受ける。検査中には「息を吸って、止めて」と「ラクにして」の2つの指示がされる。「ラクにして」はここではすなわち「息を吐くこと」なのだが、これが歯科での虫歯治療になると、 「ラクにして」は「口を閉じよ」を意味する。こうした小規模な医療クリニックって、床面積の割りに働いている人も客も多く、職場としては狭苦しくないのかなと思う。狭さの類としては飲食店に似ている。