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2026年6月30日
完成原稿がいくつか届く。今シーズンがはじまった。
そして、自分が知っていた世界が狭いということを知らされた出来事があった。自分がおおまかには文学部カルチャーに育ってきたことを思い知った。文学部というか人文系というか。いつか人に話したいネタだ。
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2026年6月29日
北海道に帰ってきた。本当に気分がいい。
「あなたたちが野外にいる猫のことをよく思っていないのは、集団的に獲得された常識として興味深く見える」という話を、最近は生態学者、鳥類学者に雑談したりしてきたことを思い出した。そして人類学者は多くの市民同様、イエネコが生態学者、鳥類学者にどう思われているかなど知ったこっちゃあない。
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2026年6月28日
京都に住んでいたときは気に入っていた古着屋に昨日久しぶりに行ったらだいぶピンとこなかったこと、これが心に妙なしこりとなっている。ただ、そもそもあそこで夏服を買ったことはなかったような気もする。冬服ばかり買っていたのかもしれない。化繊の多く入った「キューバシャツ」に対する身構えができていなかったのも分が悪かった。
台風の直後の鴨川では、少々の見物客を前に、たくさんのツバメが濁々轟々とした水面にアタックしていた。ツバメ、イワツバメ、コシアカツバメ。そしてこの川ではじめてカワセミを見た。
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2026年6月27日
日本研究をしているというわけではない日本の――難しい形容詞だが、日本で生まれ育っていて日本語での学知にコミットしている、くらいの意味――人類学者が研究会で語る、日本の事象とその考察について、自分がどう受け止めればいいのかわからず当惑するというのがこのところ続いている。日本ではこうじゃないですか、日本ではかつてこうで、等。たぶん、どういう資料(ニュースなのか、自身の体験なのか、なにか文献なのか)に基づいての話なのかを聞いてみるのが自分の指すべき手だと思うのだが。(クマとかシカはじめ野生動物や自然環境関連の誤解を含む話であればコメントすると思うので、単純に自分の勉強の至らなさの吐露でもある)
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2026年6月26日
森保監督のオランダ戦後の会見でのスピーチを見た。日本のナショナルチームでこのたぐいの外交的なスピーチできるのかと関心した。
週末の民博での研究会が台風でオンライン開催となった。結果としてゼミ出るためだけに自腹で札幌ー大阪往復することになったな。なんだこれ。
伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』は良い本だと思わされる。バランスを持つにはいろいろ道を経由しないといけないということもよく分かる。
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2026年6月25日
大阪、湿度がすぎる。
後輩に対する雑談も本当に提供できていないなと思う。自分が受けとってきた雑談がどれだけ活きているのかはさておき、どれくらいのペースで本や論文を読めばいいのかとかも、軽く喋ったり、実際の様子を見てもらったほうが伝わりやすいし。
ベネズエラでの地震のニュース。
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2026年6月24日
Steamゲームの20 small mazesが気分とも合っていてよかった。
書いているもので難所だと思っていた箇所がスルッといった -
2026年6月23日
大学へ。午前は勉強会、午後はゼミで自分の研究発表。
鳥なんてそんなそのへんで見れるのたいした種数でもないから自分はどうにかなってるけど、草屋さんって「植物っておもしろい」って思い始めてからしばらくは生活がままならなくなるんじゃないか。身近さと種数が全然違う
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2026年6月22日
大阪へ。昼ごはんで入った、我が町ハイハイタウンのインド料理屋、素晴らしかった。南インドと北インドのランチセットがあり、南にした。モノを知らない男なのだが、ドーサというのはジャガイモ生地なのか、これはよかった。食前のスープは、煮込まれた鶏のはいった強めの胡椒味がする中華粥のようなもの。プレートではいろいろとソースが出てきた。
明日ひとに見せるように、博論の概要と章立てを整理した。2ヶ月前につくったものからからあんま変わってないので、自分的にはだいたいこんな感じで行くのだろう。昨日は勉強会とゼミと夕ご飯でひさしぶりに1日中研究室の人たちと一緒にいた。著作には人間関係がこんなに引っ付いているのかということがこの4年でつくづく分かったし、ようやく議論の係争点を取り出せる具合になってきた。
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2026年6月21日
いま書いているものを、まる1日以上手放して、もうちょっと深められそうなポイントがわかった。涼しい風を感じながら、とてもよく寝た。
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2026年6月20日
つくづく思うのが職場にも研究室にも家にもイヤミな人がいないように思えることで、そのためずいぶん気楽に暮らしているのだが、このことから自然に導かれるのは、自分がどの環境でも最もイヤミな人間なのではないかということである。そしてたぶんそうなのだ。
波平恵美子『病気と治療の文化人類学』。導入からそれなりに速度出ていていいなと思う。通過儀礼とかいちいち注釈もしない。
いま書いているものの参照元に「距離を走破する」ことが書かれている。車であっちこっち行っている自分にはすごくぴったりだなと思う。
この頃博論へのコメント芸の冴えを感じる。
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2026年6月19日
広告のついたタクシーに久しぶりに乗った。これはAIの話しかしていない。
すべてを投げやって今週も藻岩山へ行った。やることはやった。はじめて買って使ってみたがトレッキングポールは本当にいい。もうこれ無しで山に行きたくなくなるぐらい。歩くのに必死で全然鳥は見られなかった。人が多い北側と比べて、南側は人も少なく快適・爽快に下ることができた。
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2026年6月18日
「泣かせる民族誌」があるということを、時々思い出しておきたい。これは論理とはきっと関係がないのだが。
概念長谷川あかりみたいな料理をつくった。ナスを薄く切ってフライパンに敷いて、その上に牛豚ひき肉を軽く潰して乗せて、日本酒をかけ、酒蒸しにする。鮮やかめの緑が足りないかもしれない。
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2026年6月17日
打ち合わせで、「相談できて安心しました」とおっしゃっていただいた。人に安心感を与えることで飯を食っているという点で保険屋とかと同じ商売なのだ。
近所の公演で小学生たちがケイドロをしていた(この地ではなんと呼ぶのだろう)。警察になったので集まってください。泥棒になります。泥棒になってくれますね。
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2026年6月16日
書いていてとにかく勉強にはなるが、なにかが言えているのかはかつてなく不明な文章を準備している。次のゼミで発表する。書いてみればなにかしらわかるだろう。
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2026年6月15日
「編集者の仕事は待つこと」ってよく言われるが、執筆してる側もけっこう待ちますね?
「現代日本の官僚制を多面的に考えようとする本作業から浮かび上がる等身大の官僚像は,冷徹なエリートでも,利己的で狡猾な存在でもない。現代日本の平均的な勤労者に,公共心に富むという特徴を付け加えれば,およそそのイメージは形成できるであろう。」[青木栄一. 2026. 現代官僚制の解剖Ⅱ: 調査から見た省庁再編25年後の官僚の意識と行動. 有斐閣. p.215]
円山公園での夏祭りに行った。どいつもこいつもドパガキ然としている。「ドパガキ」という言葉に自分が夢中になりすぎている。
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2026年6月14日
朝10時すぎくらいに起きてきた連れ合いが、定山渓のカフェに行ってみたい、と言うので、こちらもなんだが意地が湧いてきて、定山渓にとにかく行った。
キセキレイがおそらくつがいでいたが、とくべつ他にめぼしい鳥は見つけられなかった。ずっと気分が良い天気だった。山登り用の靴を2人で買った。
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2026年6月13日
はじめて20kmを歩いてみた。円山から手稲を往復する。終盤は、部活の試合終わりの疲労感がでてきて、これはひさしぶりの感覚だった。
帰ってきて汗を流すために風呂にはいったら、裸足の足で触る床面がデコボコに感じられておもしろかった。足の裏が靴のかたちになっている。
思うに、読んでいない本、使っていない言葉で差をつける時代だろう。
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2026年6月12日
いま書き始めている原稿のために、概念やアイデア、もちいている引用断片の整理をしようとマインドマップ的なツールでがちゃがちゃしようとしたが、結局のところ今回の用のためにはうまくいかなかった。マインドマップツールは、いまだ自分でうまくつかえた試しがない。本当に最初期段階、無参照でなにか書くときには良いのだろうが、すぐにパラグラフライティングに移りたいんだよな。タテに構成されないと話が組み立てられない。
アン・マッシー著、大野千鶴訳『女性たちのデザイン史』、ミチミチに情報が詰まっていて勉強になる。ただ「デザイナーの紹介・伝記的記述」の羅列にも感じられ、それぞれのデザイナーやプロダクトへの批評も少なければ、その個別の記述を通してどういう星座を描こうとしているのか(また星座の中でそれぞれの個別の記述がどう輝いているのか)がわからず、旧来的なデザイン史が頭に入っている人にとっては「書かれてこなかった歴史」として読ませる部分があるのだろうが、そうではない自分のような読者にとって、歴史記述・レビュー的読み物として面白さは薄いかも。ただし大きな塊が確かにあるのだという印象は残り、事典的な物としては読める。「そもそも一次資料にアクセスすることも難しいほどの人物たちの紹介」なのであれば、それはものすごい仕事だなと思う。
ここまで考えてから、原著がどういうものなのかググったら、なるほどレイアウト・ブックデザインが展覧会のカタログ然としたもので、これならこの文体も納得した。つまり通読することを想定していない文章だった。翻訳においては通読ができるようなレイアウト・ブックデザインになっていて、ここにギャップがあるように思った。そして、自分の読書がそれなりにデザインに引っ張られていることも気付かされた。
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2026年6月11日
10km歩くのは日常的には難しいかもしれない(毎日やると支障をきたす)。でもアクティビティとして20km歩くのはできそうな見通しがたった。
就活経験ほぼゼロで会社員やっている。後輩からの就活相談もここまでハッタリと持ち前の誠実さのみでどうにか切り抜けている。
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2026年6月10日
ガチャガチャメールをして仕事をし、文献のメモをこしらえる。次はメモをバラしていって、もう一度組み立てれば、どうにかなりそうな予感はする。
『置き配的』をひさしぶりに読んでやっぱり良いなと思った。
『すべての白いものたち』も読んだ。たとえばピンクのザラッとした紙にリソグラフで緑インキで刷ったら、なにもかもが台無しになってしまうのだろうか。それは(この本におけるブックデザインの仕事の素晴らしさとは別個に)寂しいことなんじゃないか。
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2026年6月9日
カジュアルにクマ(ヒグマ)の話が自分に振られることも時々あるわけだが、その際自分は、「ん~、どうなんすかね~」とムニャムニャとりとめもなく返答するに終始する(クマって存在感があるわりには街中に出ない限り把握しづらい存在というのは自分の関心から言ったりする)。そしてこれはそれなりに誠実なムーブとすら思っている。が、5年くらい前のときの医療人類学者の姿を範にして、なんかもうちょっと言うべきこともあるだろうとはもちろん思っている。シカとか鳥インフルエンザとかももうちょっと気にしたほうがいいすよ、とか言っておくべきかも。
一気に休校措置をとれるのとか、ちょっと驚きかもしれない。もちろんCOVID-19の経験が念頭にある。そしてクマ対策の失敗が可視化されるとき、劇的なものにならざるをえないというのも厳しい話。その一方で、人々ができる実効性のある対策が、「ゴミ出しマナー」のようなマスク・アルコール消毒よりもさらに地味なものであるというのも、なかなか。
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2026年6月8日
普段行っているのと別のスーパーに行ってみた。野菜も魚も肉もこちらのほうが手広く、かつ値段もやや安くて、片道15分くらい歩くが、こちらも積極的に利用しようと思う。札幌は、努力せずに良い食材が手に入るわけではない。これはすこし切なく思う。
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2026年6月7日
誕生日だというので、連れ合いとオリツル、鯉石に行った。口と腹のための日だった。家電量販店で双眼鏡をいろいろ見て、けっきょく自分たちがもっているものがいいチョイスなのだろうと確信できた。
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2026年6月6日
自分でもそんなバカなと思っているが、31歳ラストの日はドゥルーズとVdC、ハン・ガンを読んで過ごしている(いずれも普段読んでいるはずがないものばかり)。元日よりも大晦日を丁寧に、気を配って過ごしたいタイプの人間なのだ。
ハン・ガンはこれが自分が読んだ最初のものだけど、終盤、語り手である「姉」が、「妹」の現在、妹と自分の「姉妹」であった過去を顧みることに引っ張られるかたちで、自分の子どもの振る舞いについて、自分と子どもの関係について理解を深める場面がある。
ただ奇跡のように苦痛が止まる瞬間は、笑った後なのだ。チウがある話や行動で彼女を笑わせると、彼女はふと呆然となる。あるときは自分が笑ったことが信じられなくて、さらに笑うこともあった。そうしたとき、彼女の笑いは楽しさというより混沌に近いのだが、チウは彼女が笑う姿に喜ぶ。
こう? こうしたから、ママが笑った?
チウはそう言って、少し前の行動を繰り返し始める。口をとがらせて額に角を作ったり、ばたっと倒れるふりをしたり、両脚に顔を挟んで「ママ、ママ」とおかしな声でふざけたりする。彼女が笑うほどチウのおかしな行動はエスカレートする。ついにいつか受けたと思われるすべての笑いの秘法を動員する。そうした子どもの必死な努力が、むしろ彼女に罪悪感を呼び起こし、彼女の笑いが結局は薄れてしまうことをチウが理解できるはずがない。[ハン・ガン『菜食主義者』]ここには「なにか異質なものと出会って、考えを新しくしたり深めたりする」という動きがある。そしてこれが、作家が読者に求めるものなのであれば――この「姉」という人物・キャラクターは、「妹」との出会いなしで、この引用にある繊細さをもって子どもの振る舞いを捉えるようには、造形されていない――、それはなかなかたいへんなことだなと思う。
いつもひとつのサインの暴力があり、わたしたちに求めるように強い、わたしたちから安らぎを奪う。真理とはわきあがる善意の産物ではなく、考えにおける暴力の結果である。真理とはわれわれに考えるように、真なるものを求めるように強いる何かとのひとつの出会いから来る。[ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.20]
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2026年6月5日
研究者としても仲が良い人と打ち合わせをするのは快楽があるので、だからこそ節制しなければいけない。打ち合わせで、「いまからちょっと別の話に逸れるんですが、ここまでの話にもあとで戻ってきます」という宣言をして話を始めることがある。講義でもないのに。「通常ありえない時間ターンを取り続ける」ための宣言なんだと思う。
研究室の人たちから(心配半分・冗談半分で)言われる「カンが忙しくて寝てない疑惑」に対して、同居人がこの前の学会で「いやこいつはめっちゃ寝てる」とリプライしてた光景は、自分のなかでのひとつの理想の生活・仕事・研究のあり方のような気がした。会社の人と同居人がブースで何か話し込んでいたこととかも。
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2026年6月4日
家の床、自分の作業椅子の真下あたりの一部がはがれてきていて、それを管理会社に補修をしてもらう日。9時に男女の2人組が来る。男のほうが年長・上司っぽい。実作業は部下っぽい人のほうが行っていて、作業前と途中で経過として写真をパシャパシャ撮っている。上司が手を動かしているわけではなく、作業をずっと眺めていた(椅子を勧めたが、けっきょくずっと立っていた)。部下のほうには途中でなんどか電話がかかってきていて「これ終わって、ヘルプ必要ならそっち向かいます」など応じている。「6時間かかる」と事前に言われていたのでなんだかタイヘンだなあと思っていたが、2時間半、昼休憩の前に終わった。昼休憩終わった2人にまた「続きお願いします」、と言うことの気恥ずかしさは回避された。
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2026年6月3日
ひさしぶりの家での通常業務のあと、4Sの渡航やらの準備をする日になった。いろいろなフォーム・申請書を埋める都合で、幾度となく自分の個人情報を日本語で英語で書き入れる。カナダの電子渡航認証の申請で、やたら細かく自分の婚姻ステータス(婚姻、死別、離婚、絶縁…)の項目がある一方で、そうではない人はざっくりSingleだった。事実婚もこれに入るのだろうか、わからなかった。この差がどうなるのだろう、面倒そうだからSingleにしておいた。エア・カナダはホームページもまったく問題なく日本語表記に対応していた。こういうことにもいちいち驚けるのは、修士のときにメキシコに行ったっきり、外国に行っていないためでもある。
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2026年6月2日
道立図書館に本を返しに、江別へ。暑い中だがせっかくなのでと新札幌から1時間歩いて向かう。セミがないている(鳴き声の異なる2種類は少なくともいたと思う)。
3週間前に堂々と咲き乱れていたセイヨウタンポポは、すっかり綿毛も散り去っていて、地面に黄色が見えるのはわずかのブタナくらい。
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2026年6月1日
朝ラーメン。博多ラーメンは「豚骨」が特徴として挙げられるが、「豚の肉の出汁」の存在感もすさまじいなと、そういうのよりはラードや脂身を押し出す北海道の食に慣れつつある舌にはかなりショックだった。
福岡アジア美術館。10年ほど前に行って、なんだかおもしろかった覚えだけは残っており、再訪した。やはり良かった。国・ 地域と作品を強く紐付けることは、一方では本質主義的な見方でもあるが、しかし、そういうしかたをすることで浮き出てくるアーティストたちのテクニックやスタイルの関係があるのだなと思う。最後のほうに掲げられているチー・ポン《太陽》(Apollo in Transitという英題も最高)、キャンディー・バード&崔栄梨《アザーズ Good Night, and Good Morning》はなんだかあまりに作品に出てきている生のあり方が美しく、眩しさで涙が出てきた。それにしても、チョ・スプのスライドショー作品《かなわぬ恋》は、めちゃくちゃタケシだった。
新千歳に戻ってきて、18時ころに新札幌駅で東西線を乗り換える際、狭いコンコースのコンビニ前で、小学校高学年か中学1年生くらいの眼鏡をかけた少年が、カップラーメンを、大きなリュックサックを下ろすこともなく、立ったまま一心不乱の面持ちで、割り箸を手にすすりこんでいた。これから塾か習い事かに行く前の腹ごしらえだろうか。部活終わりでよっぽど腹が減っていたのだろうか。「人混みの中で立ったままカップラーメンを食う」というのは、自分にはよっぽど鮮烈な姿だった。もう一目でも彼の所作を見ていたら、おにぎりを買ってやっただろう。いままでに抱いたことのない感情だった。
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