2026年6月6日

自分でもそんなバカなと思っているが、31歳ラストの日はドゥルーズとVdC、ハン・ガンを読んで過ごしている(いずれも普段読んでいるはずがないものばかり)。元日よりも大晦日を丁寧に、気を配って過ごしたいタイプの人間なのだ。

ハン・ガンはこれが自分が読んだ最初のものだけど、終盤、語り手である「姉」が、「妹」の現在、妹と自分の「姉妹」であった過去を顧みることに引っ張られるかたちで、自分の子どもの振る舞いについて、自分と子どもの関係について理解を深める場面がある。

ただ奇跡のように苦痛が止まる瞬間は、笑った後なのだ。チウがある話や行動で彼女を笑わせると、彼女はふと呆然となる。あるときは自分が笑ったことが信じられなくて、さらに笑うこともあった。そうしたとき、彼女の笑いは楽しさというより混沌に近いのだが、チウは彼女が笑う姿に喜ぶ。
こう? こうしたから、ママが笑った?
チウはそう言って、少し前の行動を繰り返し始める。口をとがらせて額に角を作ったり、ばたっと倒れるふりをしたり、両脚に顔を挟んで「ママ、ママ」とおかしな声でふざけたりする。彼女が笑うほどチウのおかしな行動はエスカレートする。ついにいつか受けたと思われるすべての笑いの秘法を動員する。そうした子どもの必死な努力が、むしろ彼女に罪悪感を呼び起こし、彼女の笑いが結局は薄れてしまうことをチウが理解できるはずがない。[ハン・ガン『菜食主義者』]

ここには「なにか異質なものと出会って、考えを新しくしたり深めたりする」という動きがある。そしてこれが、作家が読者に求めるものなのであれば――この「姉」という人物・キャラクターは、「妹」との出会いなしで、この引用にある繊細さをもって子どもの振る舞いを捉えるようには、造形されていない――、それはなかなかたいへんなことだなと思う。

いつもひとつのサインの暴力があり、わたしたちに求めるように強い、わたしたちから安らぎを奪う。真理とはわきあがる善意の産物ではなく、考えにおける暴力の結果である。真理とはわれわれに考えるように、真なるものを求めるように強いる何かとのひとつの出会いから来る。[ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』p.20]